§34 純粋認識

人がイデアを認識するためには、認識を「意志への奉仕」から解放する必要がある。
これにより、主観は個別の物に対する認識をやめ、個別の物同士の関係性に対する認識をやめ、抽象的な思考をやめるからである。

この状態は忘我 – 観照する行為と主観の同化の状態であり、時間や因果関係といった「根拠の原理」を認識できないため、どこ?いつ?なぜ?といったことに邪魔されることなく、ひたすらなに?を認識することに集中した状態である。

この状態は主観が客観を映し出す単なる鏡である状態である。あたかも対象だけが存在し、それを認識するものはいないかのように、唯一つの直感像だけが意識を占有した状態である。この直感像がイデアである。このように、人はイデアを認識する。

一方、この状態では、認識行為と主観は同化しているから、イデアは意志が直観されたものでもある。この状態にある、没入した主観は、もはや時間も個体性も苦痛も失っている。この状態の主観を、純粋認識主観と呼ぶ。

私は第一部で世界は表象の集合であるといった。純粋認識主観にとって、「表象としての世界」はイデア(“物自体”)である。さらに、純粋認識主観はこの表象を「自分の本質の一つの偶有性」ぐらいに感じている。この心境を、バイロンをはじめとする多くの芸術家が歌ってきた。バイロンは、「山も波も空も私の一部」と歌っている。

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