プロテスタンティズムは偶像を否定した。今日誰もがその意味を問うことなくイースターやクリスマスを祝っている。
教会の力は弱まり、シンボルの力も弱まった。シンボルに飢えた西洋人はこぞってアジア的なシンボルに群がり始めた。
この精神の貧困化は悲しむべきものではなく、意味があると私は考える。
なぜなら、シンボルを失った人間は、自分の夢の中で「影(シャドウ)」「アニマ」「老賢者(意味)」の3つの元型との戦いを経験する定めだからである。
プロテスタンティズムは偶像を否定した。今日誰もがその意味を問うことなくイースターやクリスマスを祝っている。
教会の力は弱まり、シンボルの力も弱まった。シンボルに飢えた西洋人はこぞってアジア的なシンボルに群がり始めた。
この精神の貧困化は悲しむべきものではなく、意味があると私は考える。
なぜなら、シンボルを失った人間は、自分の夢の中で「影(シャドウ)」「アニマ」「老賢者(意味)」の3つの元型との戦いを経験する定めだからである。
キリスト教内では、元型は意図的な「編集」を経て伝承されてきた。ただし、この「編集」により元型のイメージはより個人の体験とは隔たった、魅力的なものとなっている。
例えば聖ニコラウスは元型を「神の怒りの顔」 – ヤハウェのイメージとして幻視したが、それを数年間かけて咀嚼して、「最高善」たる「三位一体」を幻視したことにしてしまった。
しかし、このような編集プロセスが、キリスト教の教義の中で元型を伝承するには不可欠の過程だったのである。そうしなければ、教義と反するこの元型は根本から否定されてしまったであろうから。
さらに、キリスト教の「三位一体」というイメージは、「神の怒りの顔」という恐ろしく耐え難い(この幻視はニコラウスの容貌を著しく変えてしまった)初期のイメージを、美しい救いのイメージに転換する実用性を持っていることが示された。キリスト教には、人間の元型に対する恐怖を緩和する作用があったからこそ、キリスト教の教義を全く理解できない一般市民にさえ広く広まったのである。
元型とは、人の心の構造を形作る原理であるが、それは「神の像」であるとも言える。
未開の部族においては、「集団表象」と呼ばれるイメージが通過儀礼(イニシエーション)を通じて部族全体に伝承される。これが元型である。
また、キリスト教においては、「三位一体」「原罪」「処女懐胎」といったイメージが教会や聖書・宗教芸術によって信者全体に伝承される。これも元型である。
また、東洋哲学における老子の思想やインドの思想もヴィヴィッドなイメージを今に伝えている。これも元型である。
これらの思想が西洋人を魅了したり、逆にキリスト教思想がしばしば東洋人を魅了するのは、これらのイメージの根底をなす元型が、個人の体験を超えた種族的な太古の記憶を揺り動かすからである。
分裂病患者や3歳~5歳の幼児の夢のモチーフを観察することで、元型の存在証明が可能となる。
しばしば、彼らの夢には、彼らが経験上知ることのあり得ない神話的なモチーフが現れる。
このモチーフはどこから来たのか?個人的な経験からではありえないのだから、これは無意識の中に遺伝的に受け継がれた太古の記憶に違いない。
一人の分裂病患者の例を挙げよう。
この患者は、自分を神であり、キリストであると考えていた。この患者は太陽を目を細めて見つめながら首を揺らし、「『太陽のペニス』を操って」「風を起こして」いるのだと話した。
4年後、ある神話の本が出版され、これと似た伝承が書かれているのを偶然見つけた。彼が当時この本を読むのは不可能である。
だから、太古の昔から遺伝的に伝わる「元型」が、この患者の無意識の中に現れたり、別の時間別の場所では神話のモチーフとして現れたりしたことがわかる。
無意識には2種類ある。
1種類目は、個人の体験によって形成される無意識である。これは、一度は意識された経験が、忘れられたり抑圧されたりして、意識されなくなってしまったものである。
2種類目は、個人の体験によらない無意識である。これは、遺伝によって先祖から伝わってきた何らかの「心の構造」である。
世の中の人は1種類目の無意識の存在しか知らず、2種類目の無意識など存在しないと言う。
私は2種類目の無意識の存在を確信している。私は2種類目の無意識を「集合的無意識」と呼ぶことにした。「集合的」というのは、このタイプの無意識の型は多くの人々の間で非常に似ているからである。
集合的無意識の「型」にも名前を付けた。私はそれらを「元型」と呼ぶことにした。