2-2-3 プロテスタンティズムと精神の貧困化

プロテスタンティズムは偶像を否定した。今日誰もがその意味を問うことなくイースターやクリスマスを祝っている。

教会の力は弱まり、シンボルの力も弱まった。シンボルに飢えた西洋人はこぞってアジア的なシンボルに群がり始めた。

この精神の貧困化は悲しむべきものではなく、意味があると私は考える。

なぜなら、シンボルを失った人間は、自分の夢の中で「影(シャドウ)」「アニマ」「老賢者(意味)」の3つの元型との戦いを経験する定めだからである。

2-2 キリスト教内の元型

キリスト教内では、元型は意図的な「編集」を経て伝承されてきた。ただし、この「編集」により元型のイメージはより個人の体験とは隔たった、魅力的なものとなっている。

例えば聖ニコラウスは元型を「神の怒りの顔」 – ヤハウェのイメージとして幻視したが、それを数年間かけて咀嚼して、「最高善」たる「三位一体」を幻視したことにしてしまった。

しかし、このような編集プロセスが、キリスト教の教義の中で元型を伝承するには不可欠の過程だったのである。そうしなければ、教義と反するこの元型は根本から否定されてしまったであろうから。

さらに、キリスト教の「三位一体」というイメージは、「神の怒りの顔」という恐ろしく耐え難い(この幻視はニコラウスの容貌を著しく変えてしまった)初期のイメージを、美しい救いのイメージに転換する実用性を持っていることが示された。キリスト教には、人間の元型に対する恐怖を緩和する作用があったからこそ、キリスト教の教義を全く理解できない一般市民にさえ広く広まったのである。

2-1 元型と宗教

元型とは、人の心の構造を形作る原理であるが、それは「神の像」であるとも言える。

未開の部族においては、「集団表象」と呼ばれるイメージが通過儀礼(イニシエーション)を通じて部族全体に伝承される。これが元型である。

また、キリスト教においては、「三位一体」「原罪」「処女懐胎」といったイメージが教会や聖書・宗教芸術によって信者全体に伝承される。これも元型である。

また、東洋哲学における老子の思想やインドの思想もヴィヴィッドなイメージを今に伝えている。これも元型である。

これらの思想が西洋人を魅了したり、逆にキリスト教思想がしばしば東洋人を魅了するのは、これらのイメージの根底をなす元型が、個人の体験を超えた種族的な太古の記憶を揺り動かすからである。